2011/4/7 傷ついた仙台、気仙沼へ

5時起床、昨日は早寝したので目覚めは早い。
うとうとして6時過ぎに新川の湯につかる。
7時、定評のある朝食バイキング、ちょいカレーなんてのもある。
ご飯のおかわり、2杯目はお粥にしておく。
7時45分にドーミーインをチェックアウト。
八重洲口から仙台行きのバスに乗る。
行きは昼行便、これは余裕の3列シート。
帰りは夜行便、これは狭い4列シート。
どちらにしても公共交通がバスしかないので満席になるだろうな。


最初の休憩地は栃木県の佐野SAでした。
迷彩服の自衛隊員がコンビニで缶コーヒーを買っている。
平時なら、こんなとこで何してんだ、と訝しく思うのだけど今は違う。
さすがにみんな締まった身体してる。
ぷよぶよのデブは誰一人いない。
自衛隊員のたのもしい背中。


次なるトイレ休憩は福島の安達太良山SA。
ここは広島の消防署員がブレイクをとっていた。
原発事故処理の応援だろうか。
福島第一原発は郡山からほぼ真東にある。
背中に広島、呉、福山とある。


雪をたっぷりのせた安達太良山が大きく裾野を広げている。
紅葉の季節、あの山に登った。
何年前だろう。
山小屋の温泉と夕食のカレーを思い出す。


仙台に2時前に到着。
いつ以来だろう?
2007年に石巻や鳴子温泉には来たが仙台へは来なかった。
2003年のゴルフ取材以来だろうか。
街は賑わっていた。
ところどころでビルの壁面が崩れ落ちていた。


青葉通りの藤崎デパートの南にあるマルシェジャポン仙台。
ここで叔母さんが気仙沼のパンを売っている。
昼間はワゴン市、夜はラウンジと頑張っている。


前日、眼鏡堂さんが東北放送ラジオでお店のことを話してくれた。
2時前なのに気仙沼名物クリームサンドは売り切れ寸前だった。


仕入れた500本が完売となる。
明日売る分がないので気仙沼まで車で仕入れに行く。
沿岸部とは佐川急便などの流通がまだ復旧していない。
東北自動車道で一関ICまで行き東進、気仙沼まで往復5時間。
市内に入る。
気仙沼駅まではどうということはない。
ここから海側へ下っていく。
川沿いに瓦礫の山が散見される。
橋を渡る。
ホコリっぽい。
家は流されなかったが海水が入ったエリアだ。
道の端に瓦礫の山。
そこに気仙沼パン工房のお店と工場があった。
10人ほどのパン工場。
地面から80センチほど床を高くしてあったので工場に海水は入らなかった。
生産量が限られているので80本くらいしか在庫がない。
段ボール二箱だけ車に積み込む。


もともとは気仙沼パンの工場で働いていたパートさんだったらしい。
気仙沼人のソウルフードと言われるクリームサンド。
その物語はこちら。
http://homepage3.nifty.com/ponz/sanpo/b_gourmet/creamsand/cream02.htm
(元祖気仙パンがつぶれて、紆余曲折があり、気仙沼パン工房に引き継がれたということか)
僕がこのクリームサンドと関わりを持つなんて不思議な縁です。
気仙沼パン工房の鈴木秀子社長。


海側へ下る。
阪神大震災と違うのは被害状況がフェードではなくカットで変わるということ。
一面、爆撃を受けたあとのような平地にところどころ家の残骸や車がある。
生まれて初めて見る津波の被災地。
今からさほど遠くない過去、この場所がどんなだったかを想像してみる。


自衛隊や警察車ばかりが目立つ。
鉄の欄干がひん曲がった橋の手前で車をとめて橋の上に立つ。
魚が腐ったような腐乱臭が漂う。
川沿いに漁船やトラックが無残に打ち上げられている。
ほぼ一ヶ月前の出来事なのにまだ生々しい。
夕日が瓦礫の街を照らす。


パン工場からわずか1キロほどの橋、先へ行くと気仙沼の港がある。

 

仙台の叔母のスナック『福家』にてビールを飲みながら歓談。
てんと記念写真、おばちゃんに会えました。


この夜は客が来なかった。
まだガスが来てないらしい。
23時で店を閉める。
仙台駅東口までいとこのゆかりちゃんの車で送ってもらう。
夜行バスにチェックインして荷物を預けて乗り込む。
その瞬間、バスが揺れた。
最初は誰かが悪いイタズラでもしてるのかと思った。
すぐに「これ地震だよ、大きい!」と声がとぶ。
激しい上下動が続く。
街路樹やビルの揺れる音、バスの外から叫び声がする。
バスはシェルターみたいなもの。
身体をかがめて揺れをやり過ごす。


Twitterやメールで情報が入る。
宮城県北部は震度6強、続いて津波警報。
さっき別れたおばちゃんやいとことは連絡がつかない。
被災地は今も被災地だった。
1995年のことを思い出した。