2015/4/25 先のことはわからない。

夏目漱石は小説「草枕」に書いた。


  山道 を登りながら、こう考えた。
  智に働けば 角 が立つ。
  情 に棹させば流される。
  意地を通せば 窮屈 だ。
  とかくに人の世は住みにくい。


文豪は山道を歩いて思索したが、僕は山道を下りながら、首に枝が刺さった。
そんなことが現実に起こるなんて一昨日までついぞ想像したこともなかった。
人生なにが起こるか漱石先生にもわからない。
先のことは一秒先だってわからない。
変更不可と予測不可、この点において過去と未来は明確に違う。


   

 


きょうも晴れ。
朝イチで香櫨園の外科クリニックへ通う。
枝が刺さった深さ4センチの傷口につめてあったガーゼを取り出す。
医者が言う。
「うわ、なかなか凄い穴ですよ」
「僕は見えないから何ともわかりませんが」
「見えない方がいいよ」
なんて会話をしながら消毒してもらう。
ひとり年配の看護師さんが鏡を持ってくる。
「見ます? スマホで撮ったらどう?」
「遠慮しておきます」
「男はそんなん苦手やから」と医師。
「そう?」と残念そうな看護師。
「わたしやったら見たいけどなあ」


また傷口にタンポンを詰める。
これが激痛。
幸運にも急所をはずしてもらったのだから痛みくらいガマンせねば。


しばらくは通院だ。
明日は日曜日なのでガーゼをつめたまま2日過ごすのだ。
診察費は400円だった。
良心的な医療費。
一分ほど会話するだけで1000円くらい払わされるクリニックもある。
あれはどんなしくみなんだろう。


正面奥の高台にある木はニセアカシア。
もう一週間もすればクリーム色の芳しい花が咲く。
   

 

午後イチで出社する。
週末の土日とニュースデスク当番だ。
ニュースはないので資料を読みながらナレーションを書く。
集中力は2時間くらいしかもたないので休み休みやり7時過ぎには強制終了する。

 

傷口は見たくないがどうなってるかは見ておきたい。
iPhone で撮ってみた。
このガーゼが貼ってあるところに枝がぐさりと刺さったのだ。
   


…尼崎の脱線事故から10年が過ぎる。
身近なだけにショックな事故だった。
その日そのとき、僕は今みたいにパソコンに日記を書いていた。
FMラジオからJR福知山線で脱線事故、死傷者で出ているとニュースが流れて来た。
死者の数が増えていく。
テレビをつけた。
転覆した列車はいつも自分が乗ってるのと同じものだった。
運転手のことを考えた。


ボブ・グリーンのコラム集「アメリカン・ビート」
その中で好きな一編がある。
題名は「あるバスの運転手」
わずか5ページの短いコラム。
アメリカの中西部を走る長距離バスの運転手の話だ。
ボブ・グリーンが業界の最大手ではない「トレイルウェイ」というバスにたまたま乗り合わせる。
アメリカの長距離バスというのはもっとも安価な移動手段だ。
バスの乗客は決して富裕な人々ではない。
料金が安いこと、それだけがバスに乗る理由だという。
そんなバスの運転手の話だ。
長いが途中から引用する。


  すでにその旅も終わりにさしかかっていた。
  私の乗っていた「トレイルウェイ」のバスはセントルイスを始発点として、
  すでにミズーリ州とイリノイ州を9時間も走り続けていた。
  何時間かそのバスに乗っているうちにあることに気づいた。

 
  運転手のことだ。
  ヒゲを生やした若者である。たぶん30代前半ではないだろうか。
  印象的だったのは仕事に対するテキパキとした几帳面な態度である。
  服装もこざっぱりしていて、乗客に接する態度も礼儀正しい。
  休息のために停まるときも腕時計を見てスケジュールを正確に守った。
  走っているときに乗客が近づいてなにかきいても、けっして迷惑そうにしない。
  それどころか愛想よく、親切に聞かれたことに答えている。
  はっきりいって七面倒なルートである。
  運行表によってまっすぐシカゴには向かわないで、その路線上にある
  クリントン、フラートン、ファーマー・シティ、ギブソンといった
  ちっぽけな町にそのつど停まらなければならない。
  こういう町にはたいていバス停はない。
  運転手は車をガソリン・スタンドの駐車場に入れたり、レストランの前に停めたりする。
  客が一人しか降りないこともある。ふたり乗ることもある。
  そんなひとりかふたりのために、
  わざわざ遠回りするのかと思うと馬鹿らしくもなるだろう。
  にもかかわらず、彼はその仕事をスマートにこなしていた。
  バスに乗り込んでくる客を気持ちよく迎え、
  降りる客のいるときは、バスを停めると
  急いで自分も降りていって荷物を下ろすのを手伝った。
  停まるたびに運行日誌をつけるために乗客の数をきびきびと数えた。
  彼は乗客の顔をひとりひとり覚えているのではないだろうか。
  乗客にとってはこの秋のどんよりした日に
  たまたまこのバスに乗り合わせたにすぎないが、
  彼にとっては私たちは彼の乗客で、
  運転手はそのことに個人的な関心をもとうとしているように見えた。


  彼はアメリカのど真ん中の忘れられた路線を走る長距離バスの運転手に過ぎない。
  だが、そのマナーからすれば、
  これがパリ行きのボーイング747であってもちっともおかしくなかった。
  なにをそんなに不思議がってるのだろうか? その答えはすぐにわかった。
  この運転手のそうした態度、どんな仕事であっても自分の仕事に誇りを持つ態度こそ、
  アメリカン労働者から遠い昔に消えてなくなったといわれて久しいものだったのである。
  たとえこの運転手が怠けてぞんざいな仕事をしたとしても、
  だれも気にとめはしなかったにちがいない。
  州と州とをまたにかけて走るバスに乗っている乗客は、
  だからといっていざこざを起こすほど強みをもった人間ではない。
  彼らにはバスに乗るよりほかに方法はない。
  バスがいやでも、ほかにそれより安い乗り物はない。
  だから、そんな運転手の仕事に誇りがなくても当然と言えば当然なのである。
  「トレイルウェイ」は長距離バス業界の最大手でもない。最大手は「グレイハウンド」だ。
  しかし、このバスに関する限りは、仕事を適当にすまそうなどという考えは
  その運転手の頭をよぎったことさえないようだった。


  さらに不思議だったのは、運転手がみずからの仕事に誇りをもっているために、
  その小さな誇りが徐々に乗客にも浸透していったことだ。
  乗客のほうだって自分が乗り心地の悪いバスに、どう頑張っても
  ほかの乗り物には乗ることの出来ない人間といっしょに乗っているということは
  よくわかっている。にもかかわらず、運転手が誇りをもっていてくれるおかげで、
  乗客のほうも少しはいい気分でいることができたのだ。


  料金所でお金を払ったとき、運転手は窓から乗り出してなにか言った。
  それは私にも聞こえた。
  運転手は何マイルか手前の高速道路の道ばたでエンコしていた車のことを言っていた。
  州警察に連絡をとって故障している車があることを知らせてやったほうがいいと親切にも係員に言っていたのだ。
  私は故障していた車には気がつかなかったが、運転手はちゃんとそれに気づいていた。
  明らかに彼はそれも仕事のうちと考えていた。


  ようやくのことでシカゴの中心街のバス停についたとき、
  運転手は降車口のステップの下に立って、乗客全員が降りるのに手を貸し、
  全員にありがとうございました、と声をかけた。
  全員が降りるまで、彼はそこに立っていた。
  めったに見られる光景ではない。
  ほとんどの客には出迎える者はなかった。
  それぞれが一人で停留所から出ていった。
  バス停では、大きな空港で見るようなドラマはまるでない。
  そこに降り立ったときの気持は冒険の始まる前に味わうゾクゾクするような思いにはほど遠い。
  相変わらず単調で退屈な人生がつづいているか、というあきらめにも似た思いだ。
  にもかかわらず、彼の態度、仕事に対する姿勢が、何時間かのあいだ状況を違ったものにしていた。
  家に帰り着いたとき、とんでもないことをしてしまったことに気づいた。
  それほどその運転手に感銘を受けたにもかかわらず、名前さえ聞かなかったのだ。
  「トレイルウェイ」に電話をかけるとすぐにわかった。
  彼の名前は、テッド・リットという。
                             (ボブ・グリーン「アメリカン・ビート」井上一馬 訳)

 

数あるボブ・グリーンの名コラムの中で一番好きな一編だ。
ぼくらも希にだが、これと似た体験をすることがある。
先日乗った四国徳島行きのJR西日本バスの運転手もそうだった。
テキパキと気持ちよく仕事をこなし、乗客の気分は良かったと思う。
空港へのリムジンバスでさえもときどきそんな運転手がいる。


脱線事故を起こした高見運転士のことを考える。
かなり精神的に追いつめられていたようだ。
10年ほど前、ユースホステルで知り合った人達と
数人で北海道の利尻岳を登った。
たまたま電車の運転士をしている人が3人もいた。
一人は阪神、一人は小田急、一人はJRだった。
互いの会社の電車についての情報を交換しあっていた。
3人とも電車が好きで好きでたまらない様子だった。
高見運転士も、彼らと同じように電車が好きだったんだろうなあ、と思った。
でも、自分の能力もなく、会社に追いつめられ
最後には 電車に乗ることが苦痛になっていたのではないか。
そんなことをヒロに話したら、
どうやら高見運転士は違ったらしい。
「JRは安定した職場だから」と選んだという。
彼は電車が好きでも何でもなかった、らしい。
なんだ、それは…、と。
ちょっと腹立たしい思いにとらわれた。


最近はそんな指向が増えているという。
ヒロの友人の息子も
「公務員志望」だという。
決して大志を抱いての志望ではない。
安定しているからが理由。
鉄道が好きでもない運転士が電車を運転し、
子供が好きでもない小学校の先生が子供を教え、
正義感のない警察官が市民を守る。


今もたぶんイリノイ州を走っているテッド・リットや北海道で出会った電車が好きでたまらない運転士たちのことを思う。
自分の仕事に誇りを持とう。
たとえ誇りが持てなくとも
せめて、好きでいよう。