2013/3/26 美しい遺跡のような

思いがけず朝帰りとなる。
バラバラになった音源を再度ミキシングする作業が予想以上に複雑になってしまったらしい。
テープへ音返しを始めたのが深夜2時過ぎ、そこから2時間以上かかるから当然夜が明ける。
ぼくはもう若くない。
今日(3/27)は使いものにならない。
休養日としよう。


自宅マンションから見た久々の蒼い朝。
   


…17時半くらいにナレーションを録り終えて時間が空く。
ガーデンシネマか、リーブルあたりで開始時間を見ながら作品を物色。
見ようと思っていた『シュガーマン』はレイトショーだし、

『偽りなき者』は陰々滅々となりそうだし。
アカデミー外国語映画賞の『愛、アムール』@リーブル梅田に決める。
リーブルなら会員になったときにもらった招待券がある。
ジャン・ルイ・トランティニアンとエマニュエル・リヴァ主演、ともに80代、

おそらく最後の名優競演。

       


白状すると、開始30分は眠ってしまった。
映画が退屈だからというのではない。
すうっと落ちてしまったのだ。
抗うことも出来なかった。
もしかして睡眠障害? ナルコレプシーか?
かなり深刻な脳障害にもかかわらず怠け者とレッテルを貼られることが多い病気であるという。
ま、とにかく、最初の30分は寝てしまったのだ。
そこで語られたセリフは2時間の映画でどこまで重要だったのか。
あえて追求しないでおく。
寝てしまったものは仕方がない。


しゃきっと目覚めてからは老夫婦二人だけの暮らしが描かれていく。
画面に登場するのは二人と、連絡がつかないので訪ねてきたピアノの弟子と娘だけ。
ひたすらパリ市街にある彼らの住まいを映し出す。
間取りも、どの部屋に何があるか、

そういうこともに観客がわかってしまうくらいほど徹底している。
やがて、妻が壊れていく。
最初は身体、そして心。
彼女の希望を受け入れ、夫は入院させず自分たちだけで解決する道を選択する。
そして、二人の暮らしが終わる。
そういう映画だった。


哀しい、というだけの映画ではない。
人間の終末期を深く考えさせられる。
かくも長く、かくも素晴らしき人生をいかにして閉じるか。


いくつかの印象的なシーンがあった。
食事中、妻が突然「アルバムが見たい」と言い出す。
お願い、今見たいの、と譲らない。
夫はようやく古いアルバムを探し出す。
若き日の写真を見ながら妻は、素晴らしい人生だった、とつぶやく。
思い出の家、思い出の旅、思い出の食事、思い出の庭、思い出のコンサート。


やがて、妻は右半身が麻痺する。
やがて、うまく話が出来なくなる。
リハビリのつもりで夫がいっしょに歌う。
(もちろんフランス語です)


    アヴィニョンの橋で 踊ろよ 踊ろよ アヴィニョンの橋で 輪になって踊ろ


妻はうまく歌えない。
幼児よりもたどたどしい。
歌を聴きながら二人が音楽家だったことを思い出す。
バッハやシューベルトを独奏していたピアノが隣の部屋にある。
残酷なシーンだった。
         


人生の最終章を二人で過ごすことに決めた。
誇り高く孤高を守る、という価値観は生きる糧になるのだろうか。
自分ならどうするか。
他にも印象的なシーンが続く。
一歩も外へ出ない二人。
アパートの窓から入ってくる鳩は何の暗喩なのだろう。
僕はどうしても自分たちの10年後、20年後を想像してしまう。
覚悟はあるか。


「男と女」、そして「24時間の情事」 美しき過去の遺産。
左の男性がジャン・ルイ・トランティニアン、右の女性がエマニュエル・リヴァ。
  


「愛、アムール」という映画の美しさは、朽ち果てたギリシャの遺跡の美しさに共通する。
エレガントに滅びる、というのも容易ではない。
僕にはなかなか出来そうにないのでジタバタするしかない。


たとえば50代から上の女性を街で見かけて、若い頃はきれいだったんだろうな、

と想像することがある。
瑞々しい美しさが失われても、今なお残光を感じとれる人に会うと得した気分になる。
きっといい人生を送ってきたんだな、と嬉しく思うことも含めて。

        
…きょうはオムライスの日。
季節に二度ほどのペースで、今日はオムライス、という日がある。
写真は編集スタジオの1階にある喫茶店のオムライス550円、ケチャップ&マヨかデミグラスかが選べる。
素人料理で僕にでも作れるオムライスだが、これはこれでアリ。
  

こんな素人っぽい町の喫茶店のオムライスも嫌いではない。
さあ、食べるぞ、と右手にスプーンを持って黄色い腹を真ん中から裂くのだ。
真っ赤なケチャップにまみれたチキンライスが申し訳なさそうに

だらしなく全容を見せたら僕の食欲は大方満足する。
だからと言って食べないわけにはいかない。
だって、オムライスだもの。