2011/3/17 うぃず・あ・りとる・へるぷ

今日は早起きしてナレーションを書く。
でも、なかなか集中出来ないまま時間は過ぎていった。
午後イチで収録。
アニキの応援VTRで桑田佳祐の『月光の聖者達』を使用。
理想通りの編集とは行かなかったが

スタジオのバラエティ感とのコントラストが面白いと思う。
20日の日曜日、OAされるかされないかはまだ微妙なところらしい。


3月、残りはすべてニュースデスクの仕事のみ。
信州スノーシューツアー、行こうと思ってた場所で地震が頻発している。
やむなく中止、一面の雪景色を堪能するという願望、今年もスルーしてしまった。


MA作業の合間にA藤、T夢らと福島駅前の地鶏屋『九州地鶏 一本松』へ行く。
http://r.tabelog.com/osaka/A2701/A270108/27001179/
バレーボール仲間と行ったヒロが美味しいと激賛していた店。
たまたま前の客が出て行くところ、ラッキーにも予約無しで入ることが出来た。
『うずら屋』同様、鶏の造りが超美味。
特に肝が!申し訳ないくらいに旨い。


朝のFMラジオから流れてきた曲。
うぃず・あ・りとる・へるぷ・ふろむ・まい・ふれんど。


…まだ世の中は騒然としている。
ここ数日、吹き飛んだ原発の写真が新聞の一面を独占している。
テレビには避難所となった学校の体育館や三陸の瓦礫の町が映し出される。
16年前を思い出す。
あの日、三宮や芦屋の瓦礫の山を見ながら武庫川団地まで歩いた。
こんなの元通りになるんだろうか、と呆然とした。
何の根拠もなかったが、10年かかるな、と思った。
僕の住んでいた公団住宅から程近い甲子園浜に瓦礫が集められゴミの山が出来た。
何ヶ月も野焼きする黒い煙が立ち上った。
風向きによっては武庫川団地を直撃した。
有害物質が含まれているのでは、と問題にもなった。
しばらくジョギングなんて出来たもんじゃなかった。
あの瓦礫の街が元通りになるのには少なくとも5年、いや10年かかるだろうな、と思った。
いやホントに、こんなの無理だろうと思わせるほどメチャメチャになってたもの。
でも、1年経ったら新しい家々が建ち始め、2年後には何事も無かったように街が出来た。
いやホント、魔法にかかったような思いだった。


あの震災後、不覚にも落涙したことが3度あった。


最初は震災の3日後、甲子園駅から梅田に出た時だった。
大阪駅周辺のデパートやいろんなショップや居酒屋が普通に営業していた。
地下の食品売り場には日本全国からの美味しいものが並び、地下鉄が走り、
映画館は上映中で、盛り場にはネオンが灯りサラリーマンたちは普通に飲んでいた。
わずか20キロしか離れていないのに大阪は神戸や芦屋や西宮とは別の国だった。
たとえるなら東ベルリンと西ベルリンのような、全く体制の異なる国のようだった。
(震災の場合は東西が逆になってたけど)
物資が不足し照明の暗い東ベルリンとショーウインドウと呼ばれた贅沢で華やかな西ベルリン。
普通のことなのに大阪を歩いていると泣けてきた。
いまだに確かな理由はわからない。
たぶん、嬉しかったのだろう。


梅田の阪神百貨店の地下で食料を買い込み自転車で芦屋や神戸の仕事仲間や友人に届けた。
その帰り道、被災者救助に救急車が数台止まっていた。
車体に「岐阜市消防本部」とか「福井市消防署」とかの文字があった。
助けに来てくれたのか…。
そう思ったとたんに涙があふれた。
たぶん、嬉しかったのだろう。


僕の住んでいた公団は一ヶ月くらい断水してた。
電気、水道、ガスの順番だったか、あるいは水道が先だったかは忘れてしまった。
部屋が9階だったのでしばらくは階段を上り下りした。
登山用のガスストーブを使って煮炊きした。
団地に給水車が来てたのでポリバケツに組む。
思えばその水を持って9階まで階段を登ったのだ。
当然、洗濯も出来なかった。
ザックに洗濯物を詰め込んで大阪まで出てコインランドリーへ行った。
そんな頃、甲子園の駅まで歩く途中、住宅街にある一軒の庭からホースが出ていた。
たらいに水が張られていてきれいな水が流れ続けていた。
塀に「我が家の井戸水です。ご自由にお使い下さい」とあった。
泣けて泣けて…。
嬉しかったのだ。


今こうして振り返るとうれし泣きばかり。
僕は幸運だったということを再認識する。
災害時は普通のことが嬉しいと思える。
平時とは違ったハイテンションな精神状態になる。
ハイテンションなだけに切れやすい。
やっぱり普通の日常が一番いい。
戻れる状況にある人はとっとと日常しましょう。


と書いたけど…セリーグの強行開催は別だ。