2011/3/25 京都南座でニャー!

今朝も冷え込む。
弥生三月も残り一週間を切ったのにいまだ春を感じることが出来ない。
それでも、季節の花は順番に咲き始めている。
チンチョウゲ、モクレン、コブシ、ユキヤナギ、桜のつぼみは…まだ固い。


南座で歌舞伎を見た。
幕間に鴨川河畔でヒロが作ってくれた弁当を食べた。
ユキヤナギが咲き始めていた。
なるほど雪柳とはうまく名付けたものだ。

 

当日記にアップする前にテキストエディター(iText Pro)に書いている。
翌日までに更新出来ない時も多々ある。いわゆる積み残し。
その時々に思ったことを忘れないようにiTextにメモしておく。
メモをもとに積み残しを書いていく。
3.11以来、こうした作業にちょっと異変を感じる。
2日前、あるいは前日に感じたことが色あせて見えるのだ。
世の中の動きに左右されて自分自身の振れ幅が大きい。
大げさに言えば昨日持っていた世界観に今日は違和感を感じる。
日記に不安を書いたりしちゃいけないと思いつつ、ついこぼしてしまう。
ここまでの2週間、自分の16年前の震災経験を思考&行動基準としていた。
でもここ数日で、ちょっと違うんじゃないか、と思うようになる。
現在進行していることは、僕らが誰も経験したことのない類の動きかもしれない。
幕末でいう「桜田門外の変」だったり、太平洋戦争でいう「226事件」だったり、
ここから歴史が堰を切ったかのように激変するのではないか。
そんなことを思い始めています。


Twitterで数人がこのブログを紹介していた。
藤波心オフィシャルブログ『ここっぴーの★へそっぴー』
http://ameblo.jp/cocoro2008/entry-10839026826.html
13歳のネットアイドルらしい。
ご隠居岩佐さんが書いてることが13歳のメンタリティではないとつぶやいていた。
本当に13歳なら大したものだと思う。
もし別人が書いてたとしてもどっちでもいい。
話題となったのは『批難覚悟で…』という記事。
平明な文体で核心をついている。


   テレビは「冷静に対応してください」しか言わない。
   あまりにも大丈夫すぎて、心配・・・・。
   挙句の果てには、
   ラドン温泉などもあるように、少量の放射線なら体に良い?(笑)とか、
  「想定外」の1000年に一度の大津波に、これだけ原発は耐えたのだから、
   やはり日本の原発はすばらしい・・・???とか、意味不明の原発絶賛???
   訳の分からないコメントを言う専門家とかww


   想定外だった、想定外だったって
   みんな口をそろえて言うけど、
   原発は、事故った時 甚大な被害がでるから、
   「想定外」はあってはならないと思うんですケド…
   私言ってること間違ってますかね・・・。


   しかも、最近は、原発の危険性を言う人は、
   危険をあおっていると、世の中は叩く傾向にあるようで、
   これは何かおかしい流れだと思うのは私だけでしょうか??


   私は冷静ですよ・・・。
   危険をあおっているわけでもありません。
   テレビはこんだけ安全・大丈夫って言い続けているので
   そのうち、
   「放射能を跳ね返す!! スーパー健康法」
   とか
   「放射能にも負けない!! 体質改善・げんき体力づくり」
   特集とかやりだすんじゃないでスカ???・・・( ̄ー ̄;


   今の現状、私が思うのは・・・
   テレビが言う、安全・大丈夫ではなく、
   やっぱり「危険」なのだとおもいます。
   前回の記事で、私が原発について否定的なことを書いたら、
   コメント・メールだけでなく、
   事務所にまで抗議・意見のメールがきました・・・・。


   どんだけ、原発をかばうんだよぉ。
   どんだけ、日本て、平和なんだよぉ。
   どんだけ、日本て、良い人(人が良い)が多いんだよぉ・・・。


   まだ自分自身が被害に遭ってなくて、
   直接危険が迫ってないから
   そんなことが言えるのかな??


ちゃんと脱原発のビジョンも書いてある。
文章は平易だけどすごく整理されていて確かに13歳の思考じゃないなと思う。
でも、小学生で名エッセイを書いたモデルの華恵の例もあるので侮れないのだが。
自衛隊や消防庁の最前線の人はがんばっている、素直に心動かされる。
でも、それとこれとは話が違う。
感動エピソードに心を委ねておけばいい人になった気分で心は平穏かもしれない。
でも、惑わされないでと思う。
悪い人になっても「危険」を疑い続けねばと思う。


内田先生も昨日のブログに原発の東電と政府の対応について書いている。
タイトルは「兵站と局所合理性について」
兵站とは後方支援、英語でいえばロジスティック。
http://blog.tatsuru.com/2011/03/24_1029.php
内田先生は今回の原発事故対応に「必敗のパターン」を見たと書いている。
転載自由なのでその箇所をコピペする。


  日本陸軍は伝統的に兵站を軽視したことで知られています。 
  司馬遼太郎が書いていましたが、日露戦争のとき、
  兵士は数日分の食糧しか持たされず前線へ送られたそうです。
  「あとは現地で調達(強奪)せよ」ということです。
  伝統的に日本陸軍はそうだった。 
  今回の震災の危機管理を見て、「これは日本陸軍だ」と思いました。
  (中略)
  いずれにせよ、日本陸軍が伝統的に兵站を軽視していたという知見は
  司馬遼太郎からの請け売りである。  
  もうひとつ「戦力の逐次投入」というのも日本軍の宿痾だったはずという指摘があった。
  まったくご指摘の通りである。
  ノモンハンもガダルカナルもこれで歴史的な敗北を喫した。
  福島原発の処理を見て「戦力の逐次投入」という「必敗のパターン」を踏んで
  官邸と東電が動いているのを見て、不安になった人は多いはずである。
  「いまのところ問題はありません。事態は好転しています」という
  「大本営発表」的な楽観論を繰り返す原子力学者たち(そのほとんどが東大教授)
  の顔つきにも私たちは気鬱な既視感を覚えたはずである。 
  どうして日本は「こんな国」になってしまったのか。  
  それが司馬遼太郎につきまとった生涯の問いだった。  
  明治40年代まではそうではなかった。
  日本人はもっと合理的で、実証的で、クールだった。
  あるときから、非合理的で、原理主義的で、ファナティックになった。
  たぶん、その両方の資質が日本人の国民性格には含まれていて、
  歴史的状況の変化に応じて、知性的にふるまう人と、
  狂躁的に浮き足立つ人の多寡の比率が反転するのだろう。 
  おおづかみに言うと、「貧しい環境」において、日本人は知性的で、合理的になる。
  「豊かな環境」において、感情的で、幼児的になる。


最前線はがんばっている。
感動エピソードがその頑張りを伝えてくれる。
でも、でも冷静に考えると次から次へと起こる不具合に右往左往しているとしか見えない。
指揮系統が…「戦力の逐次投入」という「必敗のパターン」
今回の敗戦、どんな結末が待っているのだろう。

 

京都で独り歌舞伎、独り映画、独酌のレポートはしばし待ってくらはい。にゃあ!